NHK 大河ドラマ 2022 何がおすすめ?まあ全部おすすめですけど、ちょっと整理してみましょう!

NHKの大河ドラマですが、
コロナ禍で放送の時期が
ずれ込んだりして、


一体何がいつやるのか
分からなくなっていると
思います。



今回は現時点2021年5月から
向こう2年先くらいまでで
放送予定の大河ドラマを
整理してみました。




NHK 大河ドラマ 2022 何がおすすめ?青天を衝け

2021年5月時点で放送中の
大河ドラマ「青天を衝け」です。



渋沢栄一氏のドラマです。


渋沢栄一氏とは、何をやった人物か?

渋沢 栄一氏は、
1840年3月16日生まれ、
日本の豪農出身の武士、
官僚、実業家、慈善家。



位階勲等爵位は
正二位勲一等子爵。
雅号は青淵(せいえん)。


江戸時代末期に農民(名主身分)
から武士(幕臣)に取り立てられ、



明治政府では、民部省を経て
直属の上司である大蔵大輔・
井上馨の下で大蔵少輔・
吉田清成等と共に



造幣・戸籍・出納等様々な
政策立案を行い、初代紙幣頭、
次いで大蔵省三等官の
大蔵少輔事務取扱となる。



井上馨と共に退官後は
実業界に転じ、
第一国立銀行(現・みずほ銀行)や
東京商法会議所(現・東京商工会議所)、
東京証券取引所といった



多種多様な会社、
経済団体の設立・経営に
関わり、同時に東京養育院等の
福祉事業、東京慈恵会等の



医療事業、商法講習所(現・一橋大学)、
大倉商業学校(現・東京経済大学)等の
実業教育、東京女学館等の女子教育、



台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、
二松學舍(現・二松学舎大学)
第3代舎長就任等による私学教育支援や、



理化学研究所設立等の
研究事業支援、国際交流、
民間外交の実践等にも尽力した。



それらの功績を元に
「日本資本主義の父」と
称される。



また「論語と算盤」の言葉で
代表される、道徳経済合一の
思想でも広く知られている。



ドラマのあらすじは?

官尊民卑なんて、
くそくらえ。
百姓からの脱却を決意!





渋沢栄一は、
藍染めの原料となる
藍玉づくりと養蚕を営む
百姓の家に生まれた。



頭の回転は早いが、
大人や権力にものおじしない
やんちゃ坊主に育つ。




商才に長けた父・
市郎右衛門の背中に学び、
栄一は商売の面白さに目覚めていった。



しかし17歳の頃、
人生を変える最初の事件が起こる。



御用金を取り立てる
代官に刃向かい、
理不尽に罵倒されたのだ。



栄一は、官尊民卑がはびこる
幕府の身分制度に怒りを覚え、決意する。



「虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!」。




目指せ、攘夷の志士!
ところが計画中止、追われる身へ……。



栄一は、従兄(いとこ)の
惇忠(じゅんちゅう)や
喜作と共に、尊皇攘夷に傾倒していく。



栄一らは江戸に出入りして
同志を集め、ある暴挙を企てた。



高崎城を乗っ取り、
横浜の外国人居留地を
焼き討ちするという一大攘夷計画だ。



ところが、京の情勢に通じた
惇忠の弟・長七郎の猛反対にあい、
実行前夜にしてあえなく断念。



逆に幕府に追われる立場となり、
喜作と共に京へ逃げる。



そんな彼らに助け船を出したのは、
一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。



一橋家の家臣となるか、
幕府に捕らわれて死ぬか、
という二者択一を迫られる。



この時、“慶喜こそが幕府を
変える人物となる”と望みを懸け、
一橋の人間となったことで再び運命が変わっていく——。


心ならずも幕臣に。
パリ行きが人生を開く!




栄一は持ち前の商才で
一橋家の財政改革に手腕を発揮し、
慶喜の信頼を得る。



ところが、慶喜が将軍を
継承したことで、
倒幕を目指すどころか
幕臣になってしまった。



失意の栄一に、
またとない転機が訪れる。



パリ万国博覧会の随員に
選ばれたのだ。



産業発展めざましい
フランスに渡った栄一は、
「株式会社」と「バンク」の
仕組みを知り、



さらに官と民が平等である
社会に大きな衝撃を受ける。



「攘夷なんてとんでもない。
民間が力を発揮する西洋の
国づくりを日本も吸収すべきだ!」。



そんな折、日本から大政奉還の
知らせが届き、無念の帰国へ……。



まさかの新政府入りで、
続々改革。33歳でいよいよ民間へ。




帰国後、様変わりした日本に
衝撃を受ける栄一。



約260年続いていた
徳川の時代はすでに終わり、
惇忠や喜作は「彰義隊(しょうぎたい)」
を結成。



戊辰戦争、そして函館戦争と
新政府軍との戦闘を続けていた。



栄一は、静岡で隠棲(いんせい)する
慶喜と再会し、身をやつした姿に涙する。



そして、民間に身を置きながら、
慶喜をそばで支えることを決意した。



しかし突然、明治新政府から
大蔵省への仕官を命じられて上京。



「改正掛(かいせいがかり)」を
立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など
次々と改革を推し進めること3年半。



栄一はある決意を胸に辞表を提出した。



この時、33歳。
いよいよ、栄一の目指す
民間改革が始まるのだった……!



ドラマのキャスト

渋沢氏を演じるのは、
吉沢亮さん。



1994年生まれ、東京都出身。
特技は剣道で二段の腕前。



「仮面ライダーフォーゼ」
シリーズで注目を浴び、
その後数々のテレビドラマ・
映画に出演。



「リバーズ・エッジ」で
第42回日本アカデミー賞
新人俳優賞を受賞。



2019年の映画「キングダム」では、
若き王・嬴政と奴隷の少年・
漂の二役を熱演。



連続テレビ小説「なつぞら」では、
ヒロインの幼なじみ・
天陽役が大反響を呼んだ。



大河ドラマへの出演は今作が初めてとなる。



ドラマの放送予定

「青天を衝け」は、
2021年2月14日(日)から
放送スタートする大河ドラマです。



「青天を衝け」の紹介動画

エラー - NHK




NHK 大河ドラマ 2022 何がおすすめ?鎌倉殿の13人

「鎌倉殿の13人」ですが、
2022年1月から放送予定です。



「鎌倉殿」とは
鎌倉幕府将軍のことなんですね。



頼朝の天下取りは
十三人の家臣団が
支えていたそうなんです。



頼朝の死後、
彼らは激しい内部抗争を
繰り広げますが、



その中で最後まで生き残り、
遂に権力を手中に収めたのが、
十三人中もっとも若かった
北条義時なんですね。



大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の作者

2022年1月放送予定の
「鎌倉殿の13人」の作者は、
三谷幸喜氏です。


三谷氏のプロフィールを
紹介させて下さい。


1961年、東京都出身。


日本大学藝術学部在学中の83年、
劇団東京サンシャインボーイズ結成。



90年代より大ヒットドラマを
多数手がける。



近作には、舞台(作・演出)
『江戸は燃えているか』
『日本の歴史』(18年)、



三谷かぶき『月光露針路日本 風雲児たち』
『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』(19年)、



ドラマ(脚本)『真田丸』(16年)
『風雲児たち ~蘭学革命篇(らんがくれぼりゅうしへん)~』(18年)



『黒井戸殺し』(18年)。
映画(脚本・監督)
『記憶にございません!』(19年)など。



なんですね。
とてもユニークな発想で
大河ドラマを作ったと思います。


ドラマのあらすじを
チェックしましょう。



「鎌倉殿の13人」のあらすじ

平家隆盛の世、
北条義時は伊豆の弱小豪族の
次男坊に過ぎなかった。



だが流罪人・源頼朝と姉・ 政子の
結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。




1180年、頼朝は関東武士団を
結集し平家に反旗を翻した。



北条一門はこの無謀な
大博打に乗った。



頼朝第一の側近となった
義時は決死の政治工作を行い、
遂には平家一門を打ち破る。




幕府を開き将軍となった頼朝。
だがその絶頂の時、
彼は謎の死を遂げた。



偉大な父を超えようと
もがき苦しむ二代将軍・頼家。



“飾り”に徹して命を
つなごうとする三代将軍・実朝。



将軍の首は義時と
御家人たちの間の
パワーゲームの中で挿げ替えられていく。


義時は、二人の将軍の
叔父として懸命に幕府の
舵を取る。



源氏の正統が途絶えた時、
北条氏は幕府の頂点にいた。



都では後鳥羽上皇が
義時討伐の兵を挙げる。



武家政権の命運を賭け、
義時は最後の決戦に挑んだ―


とこんな感じなんですね。









「鎌倉殿の13人」の見どころ

繰り返しになりますが、
鎌倉殿とは、鎌倉幕府の
将軍のことです。



頼朝が死んだあと、
2代目の将軍・頼家という
若者がおりまして、



この頼家が2代目
ということもあって、
父親を超えるぞ!
と力が入りすぎて
暴走してしまうんです。



それを止めるために、
13人の家臣たちが集まって、
これからは合議制で
全てを進めよう、
と取り決めます。



これが、日本の歴史上、
初めて合議制で政治が
動いたという瞬間で、
見どころの1つです。



この13人が勢力争いの中で
次々と脱落していくなか、
最後に残ったのが「北条義時」です。



いちばん若かった彼が、
最終的に鎌倉幕府を
引っ張っていく
最高権力者になる。



この北条義時をドラマでは
誰が演じるのでしょうか?


気になりますよね?









「鎌倉殿の13人」北条義時を演じる役者さん

義時役を演じるのは、
小栗旬さんです。


2年後に小栗さんは
40歳になるということで、
節目の年に放送される
大河ドラマを演れることに


幸運と興奮と、大きな喜びを
感じているということです。



さらに3度目の大河脚本となる
三谷幸喜さんの練熟した筆先が、
どんな義時像を描き出すのか……



また僕自身、どうすれば
皆さんの期待を裏切らない
義時を演ずる事が出来るのか……



など、今から想像するだけで
ワクワク胸躍る思いだ
という事なんですね。



小栗さんと言えば、
銀魂の印象が強いので、
笑いのない演技も
見たいですね・・・









小栗旬さんのプロフィール

いまサラですけど、
ご存じないかたのために・・・



1982年、東京都出身。



ドラマ、映画、舞台など
幅広く活躍。



近年の主演作にドラマ『CRISIS 公安機動捜査隊特捜班』(17年)、



映画『銀魂』(17年)
『銀魂2 掟は破るためにこそある』(18年)



『人間失格 太宰治と3人の女たち』 (19年)、



舞台『髑髏城の七人 Season花』
『ヤングフランケンシュタイン』(17年)など。



映画『罪の声』『Godzilla vs Kong(原題)』
の公開が控える。



大河ドラマは『天地人』(石田三成役)
『八重の桜』(吉田松陰役)
「西郷どん」(坂本龍馬役)
などに続く出演となります。









北条義時という人物

鎌倉幕府二代執権
北条義時(ほうじょうよしとき)は、
1163年(長寛元年)、



伊豆国の豪族北条時政の
次男として誕生します。


母は、伊東祐親の娘とも
言われるが定かではない。




姉の北条政子が蛭ヶ小島に
流されていた源頼朝と
結婚したことで、



頼朝の挙兵に従い、
鎌倉幕府の創設に尽力。




頼朝亡き後は、
有力御家人を滅ぼして
政所別当・侍所別当を兼務。




源実朝が暗殺された後、
朝廷との対立が激化し、
後鳥羽上皇が義時追討の
挙兵をすると、



これを打ち破り、
幕府主導の政治体制を
確立した(承久の乱)。




後年、室町幕府を開いた
足利尊氏が制定した
「建武式目」の冒頭には、



「なかんづく鎌倉郡は、
文治に右幕下はじめて武館を構え、
承久に義時朝臣天下を併呑す」 と
記されている。



記事もどんどん追加していきます。



どうぞお楽しみに!









NHK 大河ドラマ 2022 何がおすすめ?どうする家康

「どうする家康」ですが、
2022年夏にクランクイン
2023年に放送予定です。



誰もが知る歴史上の有名人・
徳川家康の生涯を描きます。


ひとりの弱き少年が、
乱世を終わらせた奇跡と
希望の物語です。




国を失い、父を亡くし、
母と離れ、心に傷を抱えた
孤独な少年・竹千代は、




今川家の人質として、
ひっそりと生涯を終えると思っていた。



しかし・・・



三河(みかわ)武士の
熱意に動かされ、
弱小国の主(あるじ)として
生きる運命を受け入れ、



織田信長、武田信玄という
化け物が割拠する、
乱世に飛び込んだ。



待っていたのは
死ぬか生きるか大ピンチ!
計算違いの連続!ガマンの限界!




どうする家康!



後ろ盾もなく、
豊かな国土もなく、
あるのは個性派揃いの家臣団だけ



豊臣秀吉、黒田官兵衛、
真田昌幸、石田三成と
次々と現れる強者(つわもの)たち



稀代のストーリーテラー・
古沢良太の手による、



ハラハラドキドキ、
スピード感あふれる波乱万丈の
エンターテインメント



一週間の始まりにふさわしい、
夢と希望にあふれた第62作大河ドラマ



って感じなんです。



「どうする家康」のストーリー

貧しき小国・三河にある岡崎城主・
松平広忠の子として生まれた少年・
竹千代(のちの家康)は



戦乱で父を失い、母とも離れ、
孤独な毎日を過ごしていた。



ある時、今川家へ人質として
送られる途中、織田家に強奪され、
連れ去られる。



明日の運命すら分からない中、
青年・織田信長と劇的な
出会いを果たし、



自らの力で世の中を
変えられると教えられる。



さらに父に仕えていた
旧臣たちと再会、
彼らに松平家(のちの徳川家)
再興の思いがくすぶっていることを知る。



そして“桶狭間の合戦”による
今川家の混乱の中、
家康は家臣たちともに、
三河の城を取り戻すことに成功する。



だが、それは苦労とピンチの
始まりでもあった。



領民の一向一揆に悩まされ、
さらに戦国最強の武将・
武田信玄の脅威にさらされ、



“三方ヶ原の戦い”では
徳川軍は全滅寸前に追い込まれる。



さらに武田は侵略の手を緩めず、
家臣団や家族との関係をも
切り崩そうとする。



自らの弱さに
歯がゆさを感じつつも、
敗戦をバネにして、



家康は個性派揃いの
家臣たちとの絆を深め、
一体感溢れるチーム徳川を
つくりあげていく。



しかし、“本能寺の変”で
目標でもあった信長を失い、
絶体絶命の窮地に追い込まれる家康。



人心掌握に長けた戦乱の申し子・
豊臣秀吉、精緻な頭脳を持つ天才・
石田三成が立ちふさがり、



真田昌幸たち周辺の大名たちが
足元を揺さぶる。



果たして戦乱の世は、
終わりを告げるのか?



この国に未来はあるのか?



どうする家康!


って感じなんです。
家康という人物は
どのような人だってのしょうか?



「どうする家康」家康という人物

竹千代の幼少期



三方が原の戦いにおいて、武田信玄率いる武田軍に敗れたあと、その経験を忘れないように描かせた肖像画。



身長

家康着用の辻ヶ花染の小袖は、
身丈139.5cm、



背中の中心から袖端まで
59cmの長さがあるため、
身長は155cmから160cmと推定される。


容貌

家康に謁見した
ルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、



著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、
家康の外貌について
「彼は中背の老人で尊敬すべき
愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、
色黒くなく、肥っていた」と記している。



下腹が膨れており、
自ら下帯を締めることができず、
侍女に結ばせていた(『岩淵夜話』)。



後世の書には非常な肥満体で
醜男であったとされている
(神沢杜口『翁草』1776年)。



武術の達人

剣術は、新当流の有馬満盛、
上泉信綱の新陰流の流れをくむ
神影流 剣術開祖で



家来でもある奥平久賀
(号の一に急賀斎)に
元亀元年(1570年)から7年間師事。




文禄2年(1593年)に
小野忠明を200石
(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で



秀忠の指南として、
文禄3年(1594年)に
新陰流の柳生宗矩を召抱える。



塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より
一つの太刀の伝授を受けるなど、
生涯かけて学んでいた。



ただし、家康本人は
「家臣が周囲にいる貴人には、
最初の一撃から身を守る
剣法は必要だが、相手を切る
剣術は不要である」



と発言したと『三河物語』にあり、
息子にも「大将は戦場で
直接闘うものではない」と
言っていたといわれる。



馬術も、室町時代初期の
大坪慶秀を祖とする
大坪流を学んでいる。



小田原征伐の際に橋をわたるとき、
周囲は家康の馬術に注目したが、
家康本人は馬から降りて家臣に
負ぶさって渡った。



豊臣軍の諸将は
要らぬ危険を避けるのが
馬術の極意かと感心したという
(『武将感状記』)。



弓術については
三方ヶ原の戦いにおいて
退却途中に、前方を塞いだ
武田の兵を騎射で何人も
射ち倒して突破している
(『信長公記』)。



鉄砲も名手だったと云われ、
浜松居城期に5.60間(約100m)先の
櫓上の鶴を長筒で射止めたという。



また鳶を立て続けに撃ち落としたり、
近臣が当たらなかった的の
中央に当てたという(『徳川実紀』)。


好学の士

家康は実学を好み、
板坂卜斎は家康について
「『論語』『中庸』『史記』
『貞観政要』『延喜式』
『吾妻鑑』を好んだ」と
記載している。



家康はこれらの書物を
関ヶ原以前より木版(伏見版)で、
大御所になってからは



銅活字版(駿府版)で
印刷・刊行していた。



特に『吾妻鑑』は
散逸した史料を集めて後の
「北条本」を開板し、



また林羅山に抄出本を
作成させており、
吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。




また『源氏物語』の
教授を受けたり、
三浦按針から幾何学や
数学を学ぶなど、
その興味は幅広かった。




古典籍の蒐集に努め、
駿府城に「駿河文庫」を作り、
約一万点の蔵書があったという。



これらは御三家に譲られ、
「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。



南蛮から贈られた薄石が
瑪瑙と知らされたおり、
『本草綱目』で確認させたように
実証的であった。


多趣味

鷹狩と薬作りが
家康の趣味として特に
有名であるが、他にも
非常に多くの趣味があった。



鷹狩は、府中御殿に
滞在しながら
お鷹の道で行われたとの
記録が残っているほか、



家康の鷹狩にちなむ地名や
青山忠成や内藤清成の
駿馬伝説などの伝説を
各地に残すことになった。



家康の鷹狩に対する見方は独自で、
鷹狩を慰め(気分転換)のための
遊芸にとどめずに、



政治的・軍事的視察も兼ねた、
身体を鍛える一法とみなし、
内臓の働きを促して快食・
快眠に資する摂生(養生)と
考えていた(『中泉古老諸談』)。




薬作りは、八味地黄丸など
生薬調合を行い、
この薬が、俗に「八の字」と
よばれていたことから、



頭文字の八になぞらえ、
八段目の引き出しに
保管していた。



「薬喰い」とも言われる
獣肉を食すなど記録が多い。



駿府城外には家康が開いた
薬園があり、死後に廃れたが
享保年間に復興した。



猿楽(現在の名称は能)は、
若いころから世阿弥の
家系に連なる観世十郎太夫に学び、



自ら演じるだけでなく、
故実にも通じていた。
このためもあってか、
能は江戸幕府の式楽とされた。



特に幸若舞を好んだという。
駿府城三の丸には能楽専用の
屋敷があり、家康は度々家族や
大名・公家と共に観覧した。



囲碁の本因坊算砂を
天正15年(1587年)閏11月13日、
京都から駿府に招いている。



家臣の奥平信昌が京都で
本因坊の碁の門下となり
下国の際に駿府へ連れてきた
とされる。



自身で嗜んだのみならず
家元を保護し、確立した功績から、
家康は囲碁殿堂に顕彰されている。



将棋は一世名人・大橋宗桂に
慶長17年(1612年)に扶持を与える。



この功績により、
平成24年(2012年)の
名人制度400年を記念して、
将棋十段の推戴状が贈呈される。



香道を好み薫物(たきもの)の
用材として、東南アジア各国へ
宛てた国書の中で特に
極上とされた伽羅を
所望する記述があり、



遺品にも高品質の香木が
多数遺されている。



なお有名な蘭奢待については、
慶長7年6月10日、東大寺に
奉行の本多正純と大久保長安が
派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し、



現物の確認こそしたものの、
切り取ると不幸があるという
言い伝えに基づき切り取りは
行わなかった(『当代記』)。



同8年2月25日、開封して
修理が行われている
(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)。


新しいもの好き

関ケ原の戦いに行くまでの
道中で着用したとされる南蛮胴具足
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。



日光東照宮には関ヶ原の戦いに
行くまでの道中で着用したと
される南蛮胴具足が、



紀州東照宮には徳川頼宣が
奉納した防弾性能を試した
らしい弾痕跡が数箇所ある
南蛮胴具足があり、



渡辺守綱や榊原康政には
南蛮胴を下賜し伝世している。



晩年の家康は、日時計、
唐の時計、砂時計などを
蒐集しており、
時計が好きだったようだ。



遺品として、けひきばし(コンパス)、
鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの
舶来品が現存している。



芸事は好まない

今川家での人質時代に
今川義元に舞を所望されたが、
猿楽にして欲しいと請い、
見かねた家臣が代わりに
舞っている。



当時は中世文化が
非常に盛んだった駿府で
育ちながら、京文化への関心は
元々少なかったようである。



家康は幼少期より茶の湯の
世界が身近にあったが、
信長や秀吉と異なり茶の
湯社交に対する積極性は
見られない。



家康の遺産である
『駿府御文物』には
足利将軍家以来の唐物の名物・
大名物が目白押しだが、



久能山東照宮に
ある家康が日常に用いた
手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。



ただし茶を飲むこと自体は
好んでおり、天正12年(1584年)に
松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、
毎年茶葉を献上させている。



なお、親宅は家康へ
肩衝茶入『初花』を献上し、
政重は後に宇治の茶畑の
支配を任せられ、
伏見城の戦いで戦死している。


家康が尊敬していた人物

家康は、中国の人物として劉邦、
唐の太宗、魏徴、張良、
韓信、太公望、文王、
武王、周公を尊敬している。



着目すべきはすべて
周・漢・唐時代の人物で
前王朝の暴君を倒して
長期政権を樹立した王(皇帝)と
その功臣の名が挙げられている。



日本の人物では
源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。


師は武田信玄

武田信玄に大いに苦しめられた
家康ではあるが、
施政には軍事・政治共に
武田家を手本にしたものが多い。



軍令に関しては重臣・
石川数正の出奔により
以前のものから改める必要に
駆られたという事情もある。



天正10年(1582年)の
武田氏滅亡・本能寺の変後の
天正壬午の乱を経
て武田遺領を確保すると、



武田遺臣の多くを家臣団に
組み込んでいる。



自分の五男・信吉に
「武田」の苗字を与え、
武田信吉と名乗らせ
水戸藩を治めさせている。



書画

『翁草』(神沢貞幹)や
『永茗夜話』(渡辺幸庵)には
「権現様(家康)は
無筆同様の悪筆にて候」とある。



しかし、少年から青年期の
自ら発給した文書類には、
規矩に忠実で作法通りの
崩し方を見せ、



よく手習いした
跡が察せられる。



特に岡崎時代の初期の書風には
力強い覇気が溢れ、
気力充実した様子が
窺える。



こうした文書類には、
普通右筆が書くべき
公文書が含まれており、
初期には専属の右筆が
置かれていなかったようだ。



天正年間には、
家臣や領土も増えて発給する
文書も増加し、大半は奉行や
右筆に委ねられていく。



しかし、近臣に宛てた書状や
子女に宛てた消息、
自らの誠意を披露する誓書は
自身で筆を執っている。



家康は筆まめで、
数値から小録の代官に
宛てたとみられる金銭請取書や
年貢皆済状が天正期から
晩年まで確認できる。



家臣や金銀に関する
実務的な内容なものから、
薬種や香合わせなどの
趣味的な覚書、



さらに駿府城時代の鷹狩の
日程を記した道中宿付なども残っている。



文芸として家康の書を眺めると、
家康は定家流を好み、
藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、



手紙でも定家流の影響を
受けたやや癖の強い筆跡が
窺えるようになるが、



一方で連綿とした流麗な
書風を見せる和歌短冊も残っており、



家康が実学ばかりでなく
古典や名筆にも学んだ
教養人でもあった一面を表している。



ただし『慶長記』には、
先述の実学との対比で、
根本・詩作・歌・連歌は
嫌ったとある。



絵も簡略な筆致の墨画が
10点余り伝わっているが、
確実に家康の遺品と
言われるものはなく、
伝承の域を出ない。



しかし、『寛政重修諸家譜』に
家康が描いた絵を拝領した
記録があり、余技として絵を
描いていたことが窺える。


健康指向

家康は健康に関する指向が強く、
当時としては長寿の75歳
(満73歳4ヵ月)まで生きた。



これは少しでも
長く生きることで天下取りの
機会を得ようとした物と言われ、



実際に関ヶ原の合戦は
家康59歳、豊臣家滅亡は
74歳のときであり、
長寿ゆえに手にした天下であった。



その食事は質素で、
戦国武将として戦場に
いたころの食生活を
崩さなかった。



麦飯と魚を好み、
野菜の煮付けや
納豆もよく食べていた。



決して過食することの
ないようにも留意していたと
いわれる。



酒は強かったようだが、
これも飲みすぎないようにしていた。



和漢の生薬にも精通し、
その知識は専門家も
驚くほどであった。



海外の薬学書である
本草綱目や和剤局方を読破し、
慶長12年(1607年)から、
本格的な本草研究に踏みだした。



調合の際に用いたという小刀や、
青磁鉢と乳棒も現存する。



腎臓や膵臓によいとされている
八味地黄丸を特に好んで処方して
日常服用していたという。



松前慶広から精力剤になる
海狗腎(オットセイ)を
慶長15年(1610年)と
慶長17年(1612年)の
2回にわたり献上されており、



家康の薬の調合に
使用されたという記録も残っている
(『当代記』)。



欧州の薬剤にも関心を
示しており、関ヶ原の戦いでは、
怪我をした家来に石鹸を使用させ、
感染症を予防させたりもしている。



東照大権現の本地仏が
薬師如来となった所以は
家康のこの健康指向に由来している。




致命的な病を得た際にも
自己治療を優先し、
異を唱えた侍医の
与安を追放するほど、



見立に自信を持っていたが、
自惚れではなく、専門的な
知識に裏付けられたものである。



本草研究も、後の幕府の
薬園開設につながることから、
医療史上に一定の役割を
果たしたといえる。



家康の侍医の一人、
呂一官が創業した
柳屋本店は今も現存する。



寡黙な苦労人

幼少のころから、
十数年もの人質生活をおくり、
譜代家臣の裏切りにより
祖父と父を殺されており、



そもそも織田家の人質に
なったのも家臣の裏切りに
よってともいわれている。



家督相続後は三河一向一揆に
おいて後の腹心・本多正信らにも
裏切られている。



また、小牧・長久手の戦い後には
重臣・石川数正にも裏切られている。



働き者で律儀者・忠義者が多く、
結束が固い強兵と賞賛される
三河国人だが反面、



頑固で融通が利かず
内向的で自負心が高い。



結束も縁故関係による所が大きい。



こうした家臣たちを
統御していくには日ごろから
かなり慎重な態度が求められたようで、



自然言葉数が少なくなったものと
推察され、家臣たちの家康評には
「なにを考えているかわからない」、
「言葉数が非常に少ない」
といった表現が多い。



倹約

家康の倹約にまつわる逸話は多い。



侍が座敷で相撲をしているときに
畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。



商人より献上された
蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の
不必要な豪華さに激怒し、
直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。



代官からの金銀納入報告を
直に聞き、貫目単位までは
蔵に収め、



残りの匁・分単位を
私用分として女房衆を
集めて計算させた(『翁草』)。




三河にいたとき、
夏に家康は麦飯を食べていた。



ある時部下が米飯の上に
麦をのせ出した所、
戦国の時代において
百姓にばかり苦労させて
(夏は最も食料がなくなる時期)



自分だけ飽食できるかと言った
(『正武将感状記』)。



厩が壊れても、そちらのほうが
頑強な馬が育つと言い、
そのままにした(『明良洪範』)。



家臣が華美な屋敷を
作らないよう与える敷地は小さくし、
自身の屋敷も質素であった
(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。



蒲生氏郷は秀吉の後に
天下を取れる人物として
前田利家をあげ、



家康については
人に知行を多く与えないので
人心を得られず、
天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。



この結果、
家康は莫大な財を
次代に残している。



『落穂集追加』では家康のは
吝嗇でなく倹約と評している。



普段は質素な生活に努めたが、
必要な際には必要な出費を
惜しむことはなかった。



例えば『信長公記』に記された
織田信長の接待においては
京から長谷川秀一を招いて
巨費を投じ、



趣向を凝らした接待を
行っている。



大井川の舟橋などは
信長を感動させるものだったと
記されている。


家康公遺訓

家康の遺訓として
「人の一生は重荷を
負て遠き道をゆくがごとし、
いそぐべからず。


不自由を常とおもへば不足なし、
こころに望おこらば
困窮したる時を思ひ出すべし。



堪忍は無事長久の基、
いかりは敵とおもへ。
勝事ばかり知りて、
まくる事をしらざれば、
害其身にいたる。



おのれを責て人をせむるな。
及ばざるは過たるよりまされり」
という言葉が広く知られているが、



これは偽作である。
明治時代に元500石取りの
幕臣・池田松之介が徳川光圀の
遺訓と言われる『人のいましめ』を



元に、家康63歳の自筆花押文書に
似せて偽造したものである。



これを高橋泥舟らが
日光東照宮など各地の
東照宮に収めた。




また、これとよく似た
『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は
『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、
『万歳賜』ともいう。



これは松永道斎が、
井上主計頭(井上正就)が元和の初め、
二代将軍・徳川秀忠の使いで
駿府の家康のもとに
数日間滞在した際に



家康から聞いた話を
収録したものという。



江戸時代は禁書であった。
一説には偽書とされている。





「どうるす家康」家康役は誰が演じる?

「どうする家康」の家康役は、
松本潤さんが演じます。





いまさらですが、
松本さんのプロフィールを
紹介します。



1983年8月30日生まれ、
東京都出身。



人気アイドルグループ・
嵐のメンバー。



「ごくせん」「花より男子」シリーズに出演、
大きな注目を浴びる。



主演ドラマ「ラッキーセブン」
「失恋ショコラティエ」
「99.9 -刑事専門弁護士-」で
俳優としての地位を築き、



映画「ナラタージュ」、
NHK「はじまりの歌」(2013)、



「永遠のニㇱパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎~」にも出演。



大河ドラマは初出演。


松本さんのご活躍、
期待しましょう!


「どうする家康」ドラマ宣伝動画

エラー - NHK




情報の更新は
どんどんやって行きます。


どうぞお楽しみに!


NHK 大河ドラマ 2022 何がおすすめ?まとめ

いかがでしたでしょうか?



2021年5月時点で放送中の
「青天を衝け」は、
幕末から活躍をした
渋沢栄一氏の話・・・



2022年1月からは、
「鎌倉殿の13人」は北条義時の話・・・



2023年「どうする家康」は
徳川家康の話・・・



歴史上の人物を扱う
大河ドラマですが、



一番の魅力は、登場する人物像の
想像ができることです。



この状況で自分は・・・
どうしただろうか・・・



古いしきたりに我慢できない、
そんな若者が命を懸けて戦う。



そんな時代があったんだ・・・



時代は変わっても、
変わらないもの
そんなものを見つけることが
大河ドラマの良いところ
って思っています。



最後までお読み頂きまして
感謝申し上げます。

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コメント

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